にゃんズの母(認知症と猫とわたし)

「老猫、桐ちゃん20歳(2023.7.14没)、青(せい)くん19歳。琴ちゃん4歳・常くん3歳。連くん1歳」「わたし、お洒落大好き還暦過ぎたおんな」「母、91歳。認知症要介護5で、完全車椅子生活。地域密着型の特養に入所」 ねこ、お洒落、母の認知症と日々のあれこれについてを綴っています。 泣いて笑って、愚痴満載(苦笑) 今生は一度だけ、前向きに生きるためのブログです。

父の想い出

寒い時期の葬儀・回忌法要を思う 生きている人を優先する?

2023.2.1(水)

12分の1が終わり、今日から2月。
年が明けたんだぁ・・・と思ったら、もうひと月が終わってしまった。
若い頃は一日がとても長く感じたけれど、年を重ねてからは、過ぎ行く日がとても早く感じるようになりましたヮ(苦笑)

14年前の今日、父が亡くなっています。79歳の誕生日でした。
北国の冬の葬儀は過酷です。
マイナス気温の中での葬儀は、避けられるのであれば避けたい・・・などと罰当たりなことを思ってしまいます(苦笑)

先日の叔父の葬儀ですが、予定では納骨まで済ませるはずだったと。しかし、和尚様から「納骨はもう少し暖かくなってからにしよう」と言われたそうです。
従兄弟たちはその日に全てを終わらせたいと思っていたらしいのですが、和尚様から言われたのでは致し方なしとなったようで、いつになるのか見当もつかないと話していました。

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父の葬儀のときは、お墓はまだ建立(こんりゅう)されておらず、骨壺は暫く家に置いていました。
墓地自体は父が生前に買い求めていたので、後はそこに立てるだけ。
新し物好きの父でしたから、墓石はその当時では珍しい白を選び、石屋さんと相談し雪が完全に解けてからの建立。そして納骨となっています。

あれから14年。
夫もその年の3月に亡くなっているので、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌を一緒に済ませ、このあとは十七回忌が待っています。
寒い時期での葬儀や回忌法だったので、要娘たちと話すのは、

「ばあちゃんは、できるなら冬ではなくて暖かい時期で、できれば真夏は避けてほしいよね」

などと、勝手なことを言い合う、親・婆不幸な母娘です(苦笑)

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お餅が大好きな父でしたから、仏壇にはお餅を供えました。
何故に二つずつ?
お供えはしても、結局食べるのはわたしと長女なので(笑)

葬儀屋の社長がおっしゃっていました。
一番に考えることは、生きている人たちを優先すべきで、亡くなった人を供養するのは勿論だが、生きている人の生活を考えて行うようにと。


叔父の納骨ですが、和尚様ご自身が寒さを避けたくて暖かい時期を選ぼうとした・・・?
真意は判りませんが、生きている人たちのためならば、それもアリなのでしょうね。


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故人の想いを汲み取る? 不義理な娘でした

2022.5.16(月)

2000年の3月に岩手を出た。21年が過ぎ22年目に入っている。

21年前、茨城に越すことを夫から告げられとき、

・・・やっと、美代さんから離れられる・・・

心の底から嬉しいと思った。


家を出る話を両親に持ち出した時に、言われた言葉がある。

「そうか。まぁやってみればいいんだ」

「なして出で行ぐのよ?!」


人の記憶の正確さはどこまでが守られているのだろうか。
この二つは、両親から言われたことに間違いはないが、わたしの記憶が曖昧でどちらが父で母でかが、判らなくなっている。
自分の想いを都合よく採ると、好きではなかった母が言ったであろう言葉が「なして出で行ぐのよ」

わたしのとっては、亡き父の方が色々な面で理解があった。
几帳面で、時には頑固、時にはおおらかな性格が出ていた父。
料理が得意で、裁縫や編み物・日曜大工もお手の物だった。
勉強やスポーツ、ファッションに関しても父と話している方が楽しかった。

これらを考えると、「やってみればいいんだ」と言ってくれたのが父で、
そうであってほしいという願望が強いように思う。

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岩手に戻ることを、仏壇にある写真に告げた。
わたしの声があの世とやらに届いているかは分からないが、勝手な想いで、
聴きとどめてくれのではないかと思っている(苦笑)

17年の9月に岩手から離れた美代さんも、7月には戻ることになる。
父が亡くなったことを理解していない美代さん。
家に戻ったら、夢に出て「お帰り」と言ってくれるだろうか。
それとも、仏壇の脇で美代さんにだけ姿を現してくれるのだろうか。



「おとうちゃん、ずっと不義理しちゃったね。ゴメンね」

長女として生まれ婿取りをしながらも、実家を離れてしまった。
この先は、どんな運命が訪れるのかは分からない。
運命は自分で選ぶものだと言う。

「やってみればいいんだ」


やってみて、戻ることを選んだ。


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年賀状のお付き合いは、いつまで続ける?

2021.12.22(水)

年賀はがきを買って来たまま、なかなか書けずにいます。
例年だと20日過ぎには投函しているけれど、今年は内職の完納を先に考えているので、投函は年内ギリギリかもしれない。

昔・・・岩手時代の頃、亡き父はプリントゴッコという年賀状を簡易的に印刷するプリンター?を買ってくれた。
新し物好きだった父は、とにかくいろいろなことに挑戦していた。
何年間使い続けただろうか・・・記憶の中では壊れたような・・・で、いつしか使わなくなり、その次に父が用意したのは、干支の絵が押せるゴム印と、年賀のゴム印。
毎年ひとつずつ買い求め、気が付けば全ての干支が揃っていた。

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父は季節の行事ごとを大事にする人だった。
お月見には、ススキと月見団子がテーブルに設えていた。

クリスマスには、生のもみの木に綿を雪代わりにし、電飾やオーナメントも綺麗に飾り付けてくれた。

お正月には、お節料理を作るのは父で、二段重ねのお重箱に色とりどりの料理が入っていた。

なんだか懐かしい。
本当にマメな人だった。
でも、41歳になる年に実家を離れたわたしは、それ以後の、日々の父の様子がどんなだったかを知らない。

父と最後に過ごしたのは、亡くなる年のお正月。
初詣に、浄法寺町(じょうぼうじまち)にある天台寺に家族で行ったのが最後。
脊柱管狭窄症を患ったっことのある父は、歩行がペンギン歩きになっていた。それでも、杖を使うこともなく雪の坂道もしっかりと歩いていた。

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年賀状。
父は、いつ頃まで出していたんだっけ・・・?
亡くなった年にも確か届いていたから、たぶん父も出していたのだろうね。

年に一度だけの、年賀状での挨拶をするだけの付き合いとなっている友人もいるが、数年前には、わたしの方から年賀状の付き合いをお断りした人たちもいる。

79歳で亡くなった父。
わたしも、もう少し頑張った方がいいのかな。


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父の想い出と、噛めない料理

亡き父は料理男子だった。
あたしと妹のソノコは、父の手料理で育った。
そう言っても過言ではない。

亡き父は花男子だった。
我が家の庭は(実家)、父が植えた数々の色とりどりの花で埋め尽くされていた。
手作りの垣根の扉から花壇に入ると、そこには小径が続き美しい花たちが
「観て、キレイでしょ」と、語り掛けてくるような想いを抱かせてくれるような庭だった。

その花たちの中で、一番好きだったのが「グラジオラス」
最近は、あまり見かけることがないが、子どもの頃は一般的な花だったように思う。

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小学5年生の夏休み、宿題で絵を描いた。
勿論水彩画だが、あたしは水で薄めることなく画用紙に塗っていた。
いや、薄めてはいたが水彩画特有のぼかしのような描き方ではなく、色の重ね塗りでおおよそ水彩画には程遠いような絵になっていた。

グラジオラスを1本。
担任は何も言わなかったが、廊下に張り出されたその絵を観た6年生は、

「これ、絵具?何かギトギトした絵だね」

この言葉は50年近く経った今でも忘れない。
認知症の仲間入り?
いいや、違う。
あたしは、図画工作は得意だった。
勿論絵を描くことも。
父が育てたグラジオラスの絵を批判?された・・・。

今にして思えば、小学生の素朴な感想だったのだろうが、一生懸命に描いた絵を悪く言われたという想いは、心の片隅にずっと残っていることも確かなこと。

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あたしの料理の基本は亡き父。
何処の家庭の母親でも、普通に作ってくれるような料理がテーブルに並んでいたが、父はアレンジが好きな人だったので、外食で食べた料理を自分なりに工夫して並べてくれることもあった。
当時の一般家庭にはない食材を使った料理。
そのまま作ることは難しいが、手に入らないものは無理をすることなく他の食材で賄っていた。そんな記憶がある。

夫が亡くなり一人暮らしになり、料理をすることもほとんどなくなっていた。
毎日、豆腐とサラダが中心で、たまに魚料理や、夫が好きだったもつ煮込みをあたし流に調理することもあったが。

母美代さんと暮らし始めて、あたしの手料理は開花された・・・はずなのだが、そんな甘いものではない。
好き嫌いがあり、尚且つ総入れ歯で硬い物やイカ・タコのように噛み切れない物は常にフードプロセッサーの出番。
料理は見た目もあるが、みじん切り・フードプロセッサーではそんなものは跡形もなくなってしまう。

「これは、なんだ?」

そうよね。
何を食べているかも判らないよね。
だって、仕方ないじゃない。そのまま出したら絶対言うよね!

「かだくて食べれね」

食べてくれる人がいるから料理の腕も弾むはずなのに、食べてくれる相手が料理音痴の母。
正直、作る気力も失せる。
それでも食べさせない訳にはいかない。

今夜はお刺身。
プロを使わずに済む。
絶対言うよ!

「おいしい~」

だって、噛めるんだものね。

美代さんが美味しいと言う料理。
それは味ではなく、あくまでも自分の歯(入歯)で噛める料理。

噛めないのは、歯の大切さを学ばなかったから・・・。
そして思う。
食べられたら、なんでもいいよね・・・。


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誕生日に亡くなった、父の命日 老母は思い出せる?

今日2月1日は、父の命日です。
そして、90歳の誕生日でもあります。

11年前の今日、次女からの突然の電話。
詳しくはこちら「亡き父を想うⅠ ~突然の訃報~」
お読みくださいましたら幸いです。
http://aya1205k.xyz/archives/10001874.html

当時の父は軽度認知症を発症していました。
要支援1・・・2、情けないのですが確かな記憶はないのです。
デイサービスへ行くように勧めても、口下手な父は周りの方々との会話に
不安があり、母と一緒でなければ行かないと、言っていたそうです。
そんな父に対して、介護の知識も情報もない母は、今のあたしよりも輪を
かけて辛く当たっていたようです。

離れて暮らしていたあたしは母任せでした。
それでも、介護の本を買い大事なところに付箋をつけて渡しましたが、
本を読む習慣などがない母には「豚に真珠・猫に小判」だったようで、
実践することなく、
「そったな病気、エイッヤッて、気合で治すんだ」
などと、平気で投げかけていたようです。

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最近、思うことがあります。
それは、
父は、自分の意思で逝ったのではないか・・・。


母美代さんは、家庭的なタイプではありません。
両親はもとより、舅・姑の介護経験もないのです。
その母に、今後の面倒・介護ができるのか・・・。
妻に面倒は掛けさせたくない・自分も辛い。
もしかしたら、そんな想いがあったのかもしれません。

誕生日のその日を、とても有意義に過ごした父でした。
孫むすめ達との、外食。
鍋焼きうどんを「美味しい」と、食べていたそうです。

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今朝の母美代さん。
いつものように日付と曜日確認です。
「今日は2月1日だよ。何の日だっけ?」

「ん?なにがあるっけが・・・」

父の誕生日、そして命日であることを、すっかり忘れていました。
暫くして、もう一度訊いてみました。
「2月1日だよ。判らない?」

「わがらね」

この後、何の日だ?という問いかけもありませんでした。

・・・じいちゃん、あの世と言うところはどんなところ?美代さんを迎えに来ることはないの?・・・

この世は修行の場。という仏教の教えがあるとかないとか。
美代さんには、まだまだ修行が必要なのかしら。
同時にそれは、あたしにも修業が必要ということになるのかも。
デイケアから帰ってきたら、命日であることを教えます。

甘いものが大好きだった父。
お仏壇には、お饅頭と果物をお供えました。


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プロフィール
こんにちは、にゃんズの母と申します。 2009年に夫を亡くし、現在は独身の長女と4にゃんズとの6人暮らし。 人生も残り三分の一となり、イマを精一杯生きている60代です。
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