にゃんズの母

「老猫。桐ちゃん16歳、青(せい)くん13歳」「あたし。お洒落大好きアラ還暦」「母。85歳、方言と訛り×軽度認知症」 ねこ、お洒落、母の認知症と日々のあれこれについてを綴っています。 泣いて笑って、ケンカして、人生一度きり。前向きに生きるためのブログ。

父の想い出

亡き父を想うⅢ ~親父の味~ 「好きこそ物の上手なれ」

今日のことわざは、「好きこそ物の上手なれ」です。
          □■□■□■□■□

以前、おふくろの味を載せたことがありますが。今回は、父の料理ついてを記します。

父はとても料理好きで、彩りや工夫も上手な人でした。
(母娘関係Ⅰを参照ください、こちらからどうぞ)

昨夜の晩ご飯、八宝菜(白菜だけがあればすぐできる)を作ったのですが、そういえば、父がよーく作っていたなぁって思い出しました。



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        (イメージです)


家族で外食をした際などに、美味しかった料理は家で自己流にアレンジして食卓に並べてくれました。
「中華飯」と称して、昔ですから具材はさほどはありませんでしたが、白菜・にんじん・ハム(肉の代わり)などが入っていたように記憶しています。あんかけなので、のど越しも良かったです。
わが家は肉は食べない家庭でした。何故か、肉は体に悪いとの両親の思い込みで、食卓に肉料理が並ぶことは年に数回もなかったのです。

話が少しズレますが、あたしの肉の脂身が嫌いな理由がそこにあります。
保育園の給食のカレー。じゃが芋だと思い口の中へ。「むにゅ・・・」
何とも言えない食感。元々肉に対して免疫がないのに、あの食感で更に肉嫌いに。トラウマですね。
失礼。現在は少しの脂身であれば食べられます。


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父が得意だった料理を並べてみます。

【大学芋】(もどき)
水あめの代わりに水溶き片栗粉を使用。美味しかったですよ。

【オムライス】
ケチャップで味付けされたチャーハンを、型の中へ入れ皿へ。その上に卵焼きを載せてケチャップ。

【太巻き寿司】
かんぴょう・卵焼き・きゅうり・桜でんぶが入っていました。
運動会の定番でした。(母の手作りの記憶は無しです)

【ちらし寿司】
当時のわが家のちらしは生もの無し。ご飯の上に桜でんぶ・シイタケと油揚げ・きゅうりと卵焼きの千切り。そして刻み海苔。
シイタケと油揚げの甘辛さは絶妙で、それだけでも十分おかずになってました。
これはご馳走で、誕生日や記念日などにリクエストしていました。

【フルーツサラダ】
こう言うと聞こえがいいのですが、中身はリンゴとバナナ。
5ミリくらいにカットし、マヨネーズで和えます。40年以上も前に果物をサラダに変身させた父。good job です。

あたしは、これキウイフルーツなどを加えています。
因みにマヨネーズは万能調味料です。ワサビ・からし・七味唐辛子・生姜・もちろん醤油。なんでも混ぜられます。
(ピュアセレクトマヨ、コクうま65%カロリーカット使用)

料理ではありませんが、
【お正月用の大根なます】
おおぶり大根3本ほどと人参。床にまな板を設え気合を入れて線切に。大きめボウルに山盛りになるほど作ってました。好きでしたねぇ。
大根なますは、母美代さんの好物でもあります。上記の記憶は薄っすらなのですが、この大根なますのことは、しっかりと記憶に残っているようです。
今はあたしの仕事です。酢が苦手な方は干し柿を刻んで入れることをオススメします。とてもまろやかになり一層美味しいですよ。

因みに、腕はパンパンになります(笑)

思い出しました。
食卓に肉が並ばなかったのは、両親の思い込みもありますが、近所に肉屋さんが無く逆に魚屋さんがあり、いつでも新鮮な魚が食べられたことが大きかったのだと思います。

あたしや神戸に住む妹は、自分の家がよそとは違うことを薄々感じてはいましたが、父の作る料理を嫌いに思うことはなく、彩りがよくいつも美味しい料理が大好きでした。

ありふれた家庭料理だったと思います。それでも、父の「美味しく食べてもらいたい」の心のこもった料理でした。

~今日のことわざ~

『好きこそ物の上手なれ』

好きなことは、天分があるかあであろうが、自ら進んで工夫したり、また飽きずに勉強するもので、自然に上手になるもの。芸事などは殊にはっきりしていて、いやいややったのでは上達するものではない。また碁や将棋など、下手の横好きというのも少なくはないが、これは好きでも天分がないからであろう。

(日東書院発刊 ことわざ辞典より)


好きこそものの上手なれとはよく言ったものですね。
料理嫌いな母と上手くいったのは、お互いの領域を侵さなかったから?
でしょうか。

・・・母の領域って、何だったかしら・・・


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亡き父を想うⅡ ~新し物好き&興味津々~

物心ついた時、父は町立病院の用務員(地方公務員)
病院の一室、四畳半に家族4人の暮らし。
その当時は「小使い」と言われ病院の職員から、
バカにされていたそうです(そういう時代だったのだろう)

その後は、小学校の用務員となり3~4校の転勤。

子供たちから「用務員さん、おはとうございます」とか、
「お手伝いしましょうか」などと言ってもらえたことが、嬉しかったと言っていました。

あたしが10代後半の頃だったと思います。
我が家にオーブンがやってきました。
当時、電子レンジさえもない我が家に『オーブン』
新し物好きな父が、何を思ったのか突然の購入。

料理嫌いな母の一言。

「こったなもの買って、何つぐるのや?電気代勿体ね!」

「いいべや、〇〇(あたしや妹)だぢだって欲しがってだべ」

・・・欲しがっていたかは・・・記憶にございませんが・・・

でもまぁ、あればあったで便利なもので、けっこうな頻度で使いました。

当時の記憶として一番使用していたのはあたしで、ほぼお菓子。
クッキー、パウンドケーキ、アップルパイetc.。
酒もタバコもやらない父は、甘いものが大好きでとても喜んで食べてくれました。

料理で使ったのは、今では全く作らなくなった手作りグラタン(笑)
マカロニグラタン・ポテトグラタン。

結婚してからも、むすめ達には度々クッキーは作っていました。
母娘で型抜きして、楽しかったですねぇ。

でも、母には不評、
「電気代が勿体ない、買ったほうが安い」

確かにそうなんです。
でも、『母娘で一緒に作る』がいいんじゃないですか。
分かってはもれえませんでしたが・・・。


そう言えば、この頃に食器のシリーズ物も購入していました。

大皿、スープ皿、スパゲティ皿(当時、パスタという言葉は知りませんでした)
グラタン皿、フルーツ皿、キャセロール、ケーキ皿、コーヒーセット。
今も実家で使ってるので、もうかれこれ40年物です。(物持ちいい!)

これら以外にも、和食器を中心にかなりの量の食器を取り揃えていましたが、今は段ボールの中、物置でひっそり。

そうそう、ベッドです。
両親はシングルのツインで娘のあたしたちは二段ベッド。
(小学校後半時)

中三の時、家の増改築であたしと3歳下の妹の各自の部屋ができました。
その時に、両親のベッドがお下がりで与えられ、親はダブルベッドに格上げです。
・・・よく寝られたものね、あたしは一人寝のほうが楽・・・

でも、ベッドは楽ですね。布団の上下しが要らないのですから。
これも、父の母への気遣いだったのかな、と思います・・・。

父は高等小学校しか出ていません。
    ↓
【学力や経済的理由などで中学へ行けなかった人 
年齢的には今の中学1・2年生】
それこそ母と同じように、貧乏人の子沢山の末っ子として生まれ、
教育を受けさせてもらえたのは長男・次男までということを聞いています。

そんな父がとても大切にしていたのは一冊の国語辞典。
事あるごとに引いていました。
 
あたしが物心がついたころから使っていましたので、亡くなる頃にはボロボロになっていました。

スポーツが大好きな人で、TVでの野球やバレーボール観戦などは、ひいきのチームを声をハリ上げて応援していました。

スキー、スケート、水泳、バドミントンなどは、そつなくこなす人でした。
あたしのバレーボール好きは専ら父の影響です。

因みに、母の好きなスポーツ観戦は『ボクシング』
何故か?・・・たぶん、点数の移動がなく勝敗が分かりやすい。



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(父65歳、母62歳、家族旅行 ホテルにて)


生きていたら88歳。

亡くなる数年前に認知症を発症していましたので、仮に生きていたとしても、かなりの進行状態にあり、もしかしたらあたしは両親の介護に追われる毎日になっていたかも・・・。あぁ、考えたくない。

誕生日を有意義に過ごし、母の手を煩わせることもなく、微笑みを浮かべて永遠の旅へ。

新し物好きで何にでも興味を示し、実行に移す人でした。

お読み頂き、ありがとうございました


亡き父を想うⅠ ~突然の訃報~

父が亡くなったのは9年前、79歳の誕生日のその夜。

この日は、亡き夫の最後の転職に因る引越しで早朝からバタバタしていました。

転居先に荷物を運び入れ、やっと落ち着き、遅い晩ご飯の支度をしようとしていた矢先(10時頃)の次女からの電話です。

「祖父ちゃん・・・お風呂で息してなくて・・・お姉と二人で引き揚げたけど、息してなくて・・・救急車で病院行ったけどダメだって・・・」

泣きながら、必死に話してくれました。

本来なら、摂るものも取り敢えず、真っ先に発たなければならなかったのですが、夫の仕事で次の日午前中までに片付けなければならないことがあり、それを終わらせての出発でした。

次の日、真冬の東北道を走らせ実家に着いたのは、夜の8時頃。
(にゃんズを連れての移動のため車使用)

既に家には誰もいなく葬祭会館へ行くと、妹夫婦とむすめ達が弔問客の相手をしていました。
(妹夫婦は、朝一の新幹線で駆けつけてくれたようでした)

その中の一人、本家の従兄からキツイ言葉を頂戴しました。

「なんでこの時間になったんだ!〇〇(わたしのこと)は跡取りだろ?!何を置いても一番に駆け付けるのが筋だろ?!」

御もっともな言葉です。言い訳をしても分かってもらえるとも思いませんでしたので、只々平謝りでした。

そして、事情を説明していたとは言え、哀しみの中親戚一同の矢面に立たせてしまったむすめ達と、父には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

棺の中の父は微笑んでいるように観えました。 
そっと、頬に手を添えると、まだ生きているかのようなやわらかな温もりさえも感じました。
哀しみが込みあげ、涙が溢れ止まりませんでした。

その日父は、いつものように雪かきを済ませ、午後には、楽しみにしていた地区の演芸会を母と連れ立って観てきたそうです。

夜、誕生日のお祝いに、むすめ達と近所にある和食レストランで楽しいひと時を過ごし帰宅。そしていつものように入浴。

当時の父は軽度認知症を発症していたので、母は時々声掛けをしていたそうです。

その日も入浴後1度声掛けをし、何事もないことを確認したらしいのですが、その後中々出てこない父を心配に思い慌ててドアを開けると、高温になった浴槽の中に仰向けで沈んでいたそうです。

忌中の立て札を観た近所の方々は、朝の元気な雪かきをしている姿と演芸会での陽気にはしゃいでいた様子を観ているので、「亡くなったことが信じられない」と話しておられました。

わたしの実家地区での葬儀は、出棺、火葬、告別式なのですが、朝から泣くまいと必死で涙をこらえていました。それは、長女として跡取りとしての意地と礼儀の様なものでした。

喪主である母は、ただただオロオロしているだけで何の役にもたたず、あまっさえ、火葬の最中に控室で弔問客用にと用意しておいたおにぎりを、一緒に食していたのです。

悲しくてもお腹が空くのですね・・・そして、普通に食べられるのですね・・・。

母に、この時のことを話しても憶えていないと言います。
都合の悪ことは忘れるのでしょうか。

今後のために、葬儀の代表としての挨拶をしたのは、夫でした。
その夫も約2ヶ月後に、癌により他界しました。

父の死因は、『急性心不全』となっています。

父は、わたしを始め家族の誰一人にも看取られることなく旅立ちました。

父が亡くなったときの状況に於いて、一度たりとも母を責めたことはありませんし、むすめ達たちとて、元気で普通に一日を過ごしていた父が急死するとは思ってもいなかったでしょうから。

せめてもの救いは、浴槽の中での父が寝ているような穏やかな顔をしていたと、
『その日一日を楽しく過ごせた』安らかな旅立ちであったのだろう、そう、思えることです。


母とわたしの日々のバトルを、あの世とやらで父はどの様に思っているのでしょう。

お読み頂き、ありがとうございました。

次回にて



プロフィール
こんにちは、にゃんズの母と申します。 2001年、念願の実家脱出に成功。 2009年、最愛?の夫と死別。 以後、気ままな一人暮らし。 2017年、軽度認知症の母との生活が始まり、 介護と思しきバトルの日々でございます。 動物大好き、特に猫。 酒とお洒落を愛する、普通?の「おんな」でございます。
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