2023.2.7(火)
母美代さん・89歳、要介護5。
介護度には、要支援1、2から要介護1~5まであるが、美代さんが初めて認定されたのは、要支援2だった記憶。
初めての認定が何歳だったかは定かではないが、80歳を過ぎてからだったような・・・。
父が亡くなった時、美代さんは76歳。
変形性膝関節症で正座ができず、葬儀や会食の際には一人だけ高座椅子に座っていた。
会食の際には、本来なら喪主として、参列くださった方々にお礼の意味も込めてお酌をするのが当然の地域性。
しかし、美代さんは一歩たりとも動かず、黙々と箸を動かしていた。
膝が悪かったせいもあるが、お酌という行為そのもが判らなかった・・・できなかったのかもしれない。
代わりと言ってはなんだが、わたしや娘たち、そして妹のソノコがお酌をして回った。
飲んだくれの父親と26年近く暮らしていた美代さんは、結婚するならお酒を飲まない人と決めていたそうだ。
お見合いした相手(父)は下戸で、その後の人生でもお酌とは無縁。
因みに、飲んだくれの父親は一升瓶を片手に手酌。お酌の必要はなかったらしい(苦笑)

話が飛びました、失礼。
変形性膝関節症があるにもかかわらず、畑ではしゃがみ込んでの作業で、膝痛は徐々に悪化。
根を詰めないようにとの想いで、デイサービス利用を勧めた。
折り紙やぬり絵などが大の苦手な美代さんは、初めは乗り気ではなかったが、行けば知った人もいたりでお喋りも弾む。
週に2回のデイを、心待ちにするようになった。
物を紛失させたり、キャッシュカードの暗証番号を忘れたりが増え、次の認定踏査では要介護1に。
記憶が曖昧になり、目の前にある物が一瞬何なのかが判らない・・・そんな症状が出始めた頃に、次女からSOS。
「危なくて一人にしては置けない。おかぁの親だよね!?おかぁが何とかして」
84歳。古河市に住むわたしとの同居が始まった。
要介護1の期間は長った。
87歳になった頃には、うるさいほどのお喋り電話魔だったのが、一切興味を示さずウトウトする時間が増えた。そして、その頃から入歯の入れ方も解らなくなっていた。
これはおかしいと思い区分変更の手続き、結果として介護度は1から3へ進んでいた。

症状が進行するときには、何かしらのサインがあるように思う。
3になる頃には歩行も危なくなり、杖歩行では危険と言うことでデイサービスでは歩行器や車椅子が使われていた。
家族がサインを見逃す・もしくは認めたくないということもあるのかも。
介護度が上がれば利用料金も上がるわけで、気持ちは理解できる。
わたしの場合は、認知症になったこと自体を受け入れきれずにいた。
まだ・・・もう少し自分でできるはず・・・そんな風に想いながらの毎日だったから。
赤ん坊のように何もできなくなった美代さんは、要介護3から5に。
5の判定が付いたことには少々驚いたが、昨年7月からの推移を目の当たりにしているので、納得している。
赤ん坊のように何もできないけれど、それでもわたしの親であることに変わりはない。
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母美代さん・89歳、要介護5。
介護度には、要支援1、2から要介護1~5まであるが、美代さんが初めて認定されたのは、要支援2だった記憶。
初めての認定が何歳だったかは定かではないが、80歳を過ぎてからだったような・・・。
父が亡くなった時、美代さんは76歳。
変形性膝関節症で正座ができず、葬儀や会食の際には一人だけ高座椅子に座っていた。
会食の際には、本来なら喪主として、参列くださった方々にお礼の意味も込めてお酌をするのが当然の地域性。
しかし、美代さんは一歩たりとも動かず、黙々と箸を動かしていた。
膝が悪かったせいもあるが、お酌という行為そのもが判らなかった・・・できなかったのかもしれない。
代わりと言ってはなんだが、わたしや娘たち、そして妹のソノコがお酌をして回った。
飲んだくれの父親と26年近く暮らしていた美代さんは、結婚するならお酒を飲まない人と決めていたそうだ。
お見合いした相手(父)は下戸で、その後の人生でもお酌とは無縁。
因みに、飲んだくれの父親は一升瓶を片手に手酌。お酌の必要はなかったらしい(苦笑)

話が飛びました、失礼。
変形性膝関節症があるにもかかわらず、畑ではしゃがみ込んでの作業で、膝痛は徐々に悪化。
根を詰めないようにとの想いで、デイサービス利用を勧めた。
折り紙やぬり絵などが大の苦手な美代さんは、初めは乗り気ではなかったが、行けば知った人もいたりでお喋りも弾む。
週に2回のデイを、心待ちにするようになった。
物を紛失させたり、キャッシュカードの暗証番号を忘れたりが増え、次の認定踏査では要介護1に。
記憶が曖昧になり、目の前にある物が一瞬何なのかが判らない・・・そんな症状が出始めた頃に、次女からSOS。
「危なくて一人にしては置けない。おかぁの親だよね!?おかぁが何とかして」
84歳。古河市に住むわたしとの同居が始まった。
要介護1の期間は長った。
87歳になった頃には、うるさいほどのお喋り電話魔だったのが、一切興味を示さずウトウトする時間が増えた。そして、その頃から入歯の入れ方も解らなくなっていた。
これはおかしいと思い区分変更の手続き、結果として介護度は1から3へ進んでいた。

症状が進行するときには、何かしらのサインがあるように思う。
3になる頃には歩行も危なくなり、杖歩行では危険と言うことでデイサービスでは歩行器や車椅子が使われていた。
家族がサインを見逃す・もしくは認めたくないということもあるのかも。
介護度が上がれば利用料金も上がるわけで、気持ちは理解できる。
わたしの場合は、認知症になったこと自体を受け入れきれずにいた。
まだ・・・もう少し自分でできるはず・・・そんな風に想いながらの毎日だったから。
赤ん坊のように何もできなくなった美代さんは、要介護3から5に。
5の判定が付いたことには少々驚いたが、昨年7月からの推移を目の当たりにしているので、納得している。
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