2023.2.5(日)
寿命。
もしも、自分の寿命がわかったら、それまでの年数をどの様に生きるか。
投げやりで生きるか。何かに打ち込み精一杯生きるか。
寿命が判った年齢や、残りの年数にも因るのかもね。
父方の祖母が亡くなった時、わたしは小学校6年生だった記憶。
以前にも記しているが、棺桶の中に小さく丸まった状態で納められた祖母をみて、小学生ながら死と何ぞやと思った記憶がある。
中学に進級したあるとき、死とは何かについてを担任に訊いてみた。
担任は職員室の中にある相談室に呼び入れ、何故そのようなことを考えるようになったのかと、訊いてきた。
祖母の死がきっかけであることを話した記憶があるが、その後の担任からの助言については、全くと言ってよいほど記憶に無い(苦笑)
担任は、わたしのことを要注意人物?と観たか、それとも変わり者と観たかは定かではないが、そのあと暫くの間、わたしの行動は観察されていたように思う(笑笑)
母美代さん・89歳。
貧乏人の子沢山の長女に生まれ、幼い頃から弟妹の子守りや世話に明け暮れていた。
小学校にもろくに通わせてもらえず、中学生くらいの年齢になると、行商の手伝いで家計を支えていたと。
学歴や知識のない人間が生きて行くためには、ただひたすらに働くしかなく、それを実践してきたと言っていた。
2歳下の妹・ミッコさんの嫁ぎ先が大きな農家に決まり、親は喜んでいたらしいが、そのときのミッコさんのことをとても羨ましく思ったそうだ。
そう、ミッコさんは嫁ぐことで、飲んだくれの父親と離れることができるのだからと。
美代さんは、自分も早く嫁に行かせてほしいと父親に頼んだそうだ。
だが、返事はNO。
「お前に嫁がれると、働き手が居なくなるからダメだ」
美代さんが働いたお給金の大半は、父親の酒代に消えていたらしい。
家計のためと言うよりは、自分の酒代のために娘を嫁がせない。そういう親の元で育った美代さんは、当然の如くお金に関してはシビアになっていった。
父親に巻き上げられる前に、ほんの僅かなお金を、着物にする反物を買うためにコツコツと貯めていったらしい。
着ている着物は継ぎはぎだらけで、寝ている布団はと言えば蓆(むしろ)で、ボロ布をかき集めて縫いつけた様な粗末な物を掛けていたと。
いつかはこの暮らしから脱出し、キレイな着物を着てみたいという夢があったと話していた。
人生はプラスマイナスでできているらしい。
認知症となり、人生の最も後半といえる現在の記憶は、人生で一番辛かった実家で過ごしていた頃のこと。
「おめは・・・ミッコだ」
娘であるわたしのことを忘れることが多くなり、名前を引き出してみると、いつも羨ましいと言っていたミッコさん(苦笑)
もしも自分が認知症となり、家族のことも忘れる日がくると判っていたら、美代さんは生き方を変えていたのだろうか。
美代さんの生き方を否定するつもりはないが、もう少し自分勝手な生き方もあったのではないかと。
まぁ、そうなるとわたしは存在していないはずで(苦笑)
庶民として生きてきた美代さんは今、その日その日を穏やかに生きている。
人生のプラスマイナスの、どの辺りにいるのだろうね。
いつもお読みくださりありがとうございます。
ランキングに参加しています。
ポチっと応援していただけますと、励みにもなり嬉しいです。
人気ブログランキング
にほんブログ村
寿命。
もしも、自分の寿命がわかったら、それまでの年数をどの様に生きるか。
投げやりで生きるか。何かに打ち込み精一杯生きるか。
寿命が判った年齢や、残りの年数にも因るのかもね。
父方の祖母が亡くなった時、わたしは小学校6年生だった記憶。
以前にも記しているが、棺桶の中に小さく丸まった状態で納められた祖母をみて、小学生ながら死と何ぞやと思った記憶がある。
中学に進級したあるとき、死とは何かについてを担任に訊いてみた。
担任は職員室の中にある相談室に呼び入れ、何故そのようなことを考えるようになったのかと、訊いてきた。
祖母の死がきっかけであることを話した記憶があるが、その後の担任からの助言については、全くと言ってよいほど記憶に無い(苦笑)
担任は、わたしのことを要注意人物?と観たか、それとも変わり者と観たかは定かではないが、そのあと暫くの間、わたしの行動は観察されていたように思う(笑笑)
母美代さん・89歳。
貧乏人の子沢山の長女に生まれ、幼い頃から弟妹の子守りや世話に明け暮れていた。
小学校にもろくに通わせてもらえず、中学生くらいの年齢になると、行商の手伝いで家計を支えていたと。
学歴や知識のない人間が生きて行くためには、ただひたすらに働くしかなく、それを実践してきたと言っていた。
2歳下の妹・ミッコさんの嫁ぎ先が大きな農家に決まり、親は喜んでいたらしいが、そのときのミッコさんのことをとても羨ましく思ったそうだ。
そう、ミッコさんは嫁ぐことで、飲んだくれの父親と離れることができるのだからと。
美代さんは、自分も早く嫁に行かせてほしいと父親に頼んだそうだ。
だが、返事はNO。
「お前に嫁がれると、働き手が居なくなるからダメだ」
美代さんが働いたお給金の大半は、父親の酒代に消えていたらしい。
家計のためと言うよりは、自分の酒代のために娘を嫁がせない。そういう親の元で育った美代さんは、当然の如くお金に関してはシビアになっていった。
父親に巻き上げられる前に、ほんの僅かなお金を、着物にする反物を買うためにコツコツと貯めていったらしい。
着ている着物は継ぎはぎだらけで、寝ている布団はと言えば蓆(むしろ)で、ボロ布をかき集めて縫いつけた様な粗末な物を掛けていたと。
いつかはこの暮らしから脱出し、キレイな着物を着てみたいという夢があったと話していた。
人生はプラスマイナスでできているらしい。
認知症となり、人生の最も後半といえる現在の記憶は、人生で一番辛かった実家で過ごしていた頃のこと。
「おめは・・・ミッコだ」
娘であるわたしのことを忘れることが多くなり、名前を引き出してみると、いつも羨ましいと言っていたミッコさん(苦笑)
もしも自分が認知症となり、家族のことも忘れる日がくると判っていたら、美代さんは生き方を変えていたのだろうか。
美代さんの生き方を否定するつもりはないが、もう少し自分勝手な生き方もあったのではないかと。
まぁ、そうなるとわたしは存在していないはずで(苦笑)
庶民として生きてきた美代さんは今、その日その日を穏やかに生きている。
人生のプラスマイナスの、どの辺りにいるのだろうね。
いつもお読みくださりありがとうございます。
ランキングに参加しています。
ポチっと応援していただけますと、励みにもなり嬉しいです。
人気ブログランキング
にほんブログ村
私の祖母と伯母も、時代のせいで大変苦労して生きた二人でした
祖母は長生きしましたが、伯母は49歳で三人の子どもを残してガンで亡くなりました
やはり大きな農家の嫁で舅と姑と同居でしたので、家から少しでも出たいとPTA会長に立候補したそうで、PTA活動はとても楽しくやっていたそうです
私にも優しい伯母でした
お母様は本当にお幸せです
私は母を介護することはできないと思います
私も母といろいろ確執があり、寄り添ってくれるような両親ではなく、妹が一人いますが妹とも気が合わず
私は今でも家族の中で浮いた存在です
本当にお正月に半日会うのだけでも胃がキリキリしました
そして自分の家族はというと、息子とも娘ともあまり上手くできていないようで、私が鬱陶しいようです
育てたようにしか育たない、といいますが、私も両親のように子育ては上手くなかったのでしょう
子育ては後悔しても遅いですね
今になってわかりました
それでも毎日生きていかねばならず
何をよりどころにしたら良いのかもわからない日々です