2021.3.28(日)

毎年訪れる命日。

12年前の今日、夫は天に召された。
享年、53歳。

54歳になる年の3月に亡くなったことで、墓標には55歳没と記されている。
仏教の世界では、数え年で記されるらしい。

1572140_s

余命宣告をされていたので、死ぬときには故郷の岩手でという気持ちが強く、民間の救急車を手配していたが、運び込まれたのは救急車ではなく霊柩車だった。

夫と一緒に岩手へ行くために、入居したアパートの解約や引越しの手配などが、バタバタと過ぎて行った。
岩手へ出発するために朝から忙しかったが、部屋のことはむすめ達に任せ病室に詰めていた。
準備が全て終わり、明朝には岩手に向かうことを夫に知らせ、今夜はゆっくり休もう。そんな気持ちでいた。

夜、急変した。
担当医からは、いつ亡くなってもおかしくない状態だとは言われていた。
それでも、何とか頑張って死ぬのは岩手で・・・だったが、その想いは絶たれた。

夫は、もしかしたら岩手に行けるということで安心したのだろうか。
それまで頑張って生きてきたが、張り詰めていた糸のようなものが「プツン」と切れてしまったのだろうか。

看護師からの数分の心臓マッサージのあと、担当医はいなく当直医がやってきた。
「これ以上は何もできない」と言われ、最期は「ウッ」という声が漏れ、臨終となった。
様々な管に巻かれるわけでもなく、左手の指にパルスオキシメーターが一つ。
意識が朦朧とする中で、死に対する恐怖心の様なものはなかったと想う。

病気になるなる前から「やりたいことはすべてやった。いつ死んでも後悔はない」こんなことを普通に言っていた人だった。
後悔はないが、未練はあると言っていた。
それは、孫の顔が観られないこと。
こればっかりは、あたしでも手助けはできないこと、むすめ達次第だから。

死期を悟り、死の恐怖はなくても「死ぬときに苦しむのは嫌だ」そんなことも言っていたが、眠るようには逝かなかった。
最後に漏れた「ウッ」は、苦しみの声に聞こえた。

入院期間、約1ヶ月。
死亡時刻、夜11時13分。
死因、胆管細胞がん。

DSC_1158

     落ちていた小枝に残っていた桜です


茨城県民となり、20年の歳月が過ぎた。
この20年のうち、野田市に約2ヶ月間。
岩手の実家に、約6ヶ月間住所を置いていた。

関東に出て、夫と暮らしていた期間は8年。
以後の12年は夫のいない世界で、この中には母美代さんとの同居も含まれる。

死は平等だ。
死なない人間はいないだろう。
あたしも、いつかは夫のいる世界に行くことになる。
でも、あたしは小心者なのだろう。
後悔することが沢山あるし、未練も多い。

いつかはお迎えが来るのだろうが、それはまだまだ先であってほしい。
そして、お迎えが来るまでは、なるべくなら自分の事は自分でできている人生で在りたい。
欲を言えば、夫が言っていた通り苦しまずに逝きたいものだ。


ねぇ、あたしはまだそっちへは行きたくないよ。
だから、そっちの世界で良い人ができているのなら、その女性(ひと)と楽しくしててね。
でも、お願いがあるの。そっちに行った時のあたしの姿は、あなたが知っているあたしではないはずよ。それでも、ちゃんと見つけてほしいの。
そして、できれば「お疲れ様」の一言がほしいな。


この12年間、一日たりとも忘れたことはない。
人は二度死ぬと言う。
一度目はこの世から去ったとき。
そして、二度目は人々の記憶からなくなったとき。

母は、父の死を受け入れていない。
父は、母が亡くなるまで生きているのだろう。

あたしも、自分の生が尽きるその日まで、夫のことは憶えていたいと思う。

今生は一度限り。