2021.3.6(土)

今朝、特養入居の事を美代さんに話した。

あたしの手に負えなくなったら、施設に入ってもらうからね。

こういう話をしていたのは、美代さんと同居が始まった辺りなので、3年は過ぎている。
当時は「お前に面倒をかけるわけにはいかない。いいと思う時に入れてくれ」などと、殊勝なことを言っていた。

あれから、あたしのイライラが爆発した時には随時特養の話を出してきた。
そのことも踏まえて、特養に入ってもらうよと切り出したが、如何せん3年前のことなど全く記憶にない。ちょくちょく出してきたのに、それさえも記憶にない。まぁ、いつものことなので致し方なし。

ところで、2017年の秋から一緒に住み始めたが、その記憶もたぶんないのだろうと思いながら、古河に住むようになったきっかけから話し始めた。

案の定だ。
先ず、住んでいるところが既に判らない。
そして、20年前にあたしと夫、次女のサキの3人で茨城に越してきたことも、きれいさっぱりと記憶にない。故に美代さんは、ずっとあたしと一緒に暮らしてきたものと思い込んでいる。

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元々あたしは、美代さんのことが好きではない(嫌いが正しいかな)
(詳しいことは母娘関係や父の想い出に載せています)
20年前に美代さんから離れられることを、とても幸せに思っていた。
それでも、離れたことで案ずる気持ちにもなるもので、帰省から古河に帰る際は「元気で身体を労わって居てね」などと、優しい言葉を掛けることができていた。

嫌いな母親と一緒に暮らす。それだけでも抵抗があったのに、介護の為の同居は究極の選択だった。
世の中には、一卵性母娘とか友達母娘とか、とても良好な母娘関係が存在しているらしいが、ことわが家に関しては全く当てはまらない。
ただ、美代さんは自分がこんなにも嫌われているなどとは想ってもいない。

いつだったか「あたしはあなたから母親らしいことは何もしてもらっていない。あたしはあなたが嫌いなのよ」こうまで言い放ったことがある。
その時の美代さんはうなだれて「ウッウッ」と泣き始めていた。
が、認知症故、数分後にはパーッと飛んでいた。

入居になるかもしれない特養が、どんなところなのかを説明した。
① 3食昼寝付きで、おやつも出るよ。
② 周りは田んぼで、田植えや稲刈りの様子も観られるよ。
⓷ あなたくらいの人達が10人で暮らすけど、ちゃんと自分の部屋もあるよ。トイレも洗面台もあるし、お風呂にも入れるからね。
④ デイみたいに、嫌いなお絵描きや字を書く勉強もしなくていいんだよ。
⑤ 今はコロナだから簡単には会えないけれど、コロナがなくなったら面会もできるしお出かけもできるから、一生会えない訳じゃないんだよ。

こんな様なことを話してあげたが、⑤に関してはあたし自身に言い聞かせているような・・・そんな感じだった。

歩けなくなるかもしれない。認知も進行するかもしれない。
でも、あたしのイライラに付き合わされたりすることもなく、一層穏やかに暮らせると想う(たぶん)

昨夜は、大好きな・生きていると思い込んでいる父の名前も、言えなくなっていた。
忘れて行くのがこの病気なのだから、これも致し方なし。

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    美代さんのひ孫のハヤブサくん
    七五三お祝いの写真を持たせようと思っています

4日の晩に長女のユカとライン電話。
思いの外早く入居になることを伝えたが、異論はなし。

「母が認知症になったら、あんた、どうする?」

「大丈夫だよ。おかぁみたいにちゃんと施設を探して、そこに入れてあげるから」

おありがとうございます(笑)
でも、自分の気持ちとしては、なるべくならならないように。
仮になったら、全てお任せで言うことを聴きましょう(苦笑)