あたしは、人として何かが欠けているのかもしれない。
仮にロボットだとしたら、ネジ・ボルトが1本足りない?
そんな人間なのかもしれない。

誰かの言葉だ。
病気で死んでも、事故で死んでも。
1歳で死んでも、100歳で死んでも。
その死は間違いなく死で、それがその人の寿命だったのだ・・・と。
これを聴いて、簡単に受け入れられる人はどれほどいるのだろう。

最初にこの話を聞いたとき、
「何て冷たい考え方をする人間なんだろう」と、思った。
でも、時間が経つにつれ考えが変わってきた。

どんな亡くなり方をしても、後に遺された者の悲しみはある。
その悲しみ方は人に因って違うだろうが、悲しみに度合い等ない。
「お前より自分の方が悲しい」
こう言う人もいるが、その悲しみを何で測ってそんなことを言うのか。

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父が亡くなったとき、なるべく泣かないように涙を見せないようにしていた。
泣いてなどいられない、跡取りの自分がしっかりしなくては、弔問に来て下さった方に失礼になる。
そんな、意地のようなものがあった。

夫が亡くなったとき、涙が止まらなかった。
どんなに我慢をしようとしてもダメだった。
それでも、ちゃんと挨拶等失礼にならないようにしていたつもりだったが、後にして思えば随分と娘たちに助けられていたように思う。

災害が起こるたびに思う。
変形性膝関節症で、最近は歩くことを怖がっている母。
この母をどのように連れ出せばいいのか。
いざとなったら、火事場の馬鹿力が発揮され何としても助け出そうとするのか。
それとも、母を見捨て自分だけ逃げようとするのか。

今のあたしには正直言って、
「母だけは何としても助けようと思っていました」
なんて殊勝な想いはない。
冷たい人間なのだと、つくづく思う。
助け出すこともできずに母が亡くなったら、暫くは後悔するのだろう。
でも、それも寿命だとしたなら、受け入れるしかないのだと思う。

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最近、母をデイケ・デイサに送り出すと、どっと疲れが出る。
パソコンに向かっていても怠くて続けられずに、閉じてしまうことが多い。
この体力で、果たして母を守り切ることなどできるのか。
体力維持のためのジョギングも、ウォーキングに戻りつつある。
そのウォーキングも、勝手な理由をつけサボることが多くなっている。

この先、何が起こるかなど判らないが、仮に何かが起きたとして母に死が訪れたとしても、それは寿命だから。
そう、思うこととする。


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