にゃんズの母(しがらみと生きる)

「老猫、桐ちゃん20歳(2023.7.14没)、青(せい)くん18歳。琴ちゃん・常くん3歳」「わたし、お洒落大好き還暦過ぎたおんな」「母、90歳。認知症要介護5で、完全車椅子生活。地域密着型の特養に入所」 ねこ、お洒落、母の認知症と日々のあれこれについてを綴っています。 泣いて笑って、愚痴満載(苦笑) 今生は一度だけ、前向きに生きるためのブログです。

2021年03月

頭の中は60年前?それとも現在?そして、漫才は・・・続く

2021.3.31(水)

昨日は火曜日で、デイサービスには行かない日。
食べて寝て、意味もなくTVをつけての繰り返しの中で、仏壇に立ててある夫の写真を手にし、これは誰かと訊いてきた。
以前のあたしなら、あなたには関係のない人だから気にしないでと突っぱねていたが、昨日は心境の変化?(笑)で、素直にあたしの夫の〇〇だと教えた。
すると美代さんは、

「したら、ユカどサキのお父さんが?こったな顔してだっけが・・・おべでねじゃ(憶えていない)

顔を憶えていないとは言え、ユカ・サキの父親だと理解できたことが素晴らしい。少し前には二人の父親が誰なのかも解らなかったのだから、その時は褒めてあげた。

が~~~、夫の写真と共に父(美代さんの夫)の写真も立てているのに、その写真のことには「チラッ」とも触れない。
だいたい、仏壇に写真があるということは亡くなっているからなのだが、美代さんはそれを理解してはいない。
思うに、そういうこともあって父の写真を無視するのか、それとも写真を観ても判らなくなっているのか、イマイチ判断が難しい。
そんな美代さんから、夕方久し振りに「じっちゃ、帰って来ねな」という言葉が出た。

「ナガゼギのヨシさんの農場で働いているんじゃない。前にあなたがそう言ってたよ」

これは、ある日のデイサービスから帰って来た際に、送迎車の中で何方かとの会話の延長で出た言葉。それを、そっくりそのまま美代さんに話してみたが、まぁ、当然の如く憶えていないヮよね。

「オレ、そったなごど喋ったってが・・・おべでねじゃ」

.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。o○.。

晩ご飯の時に、またまた不思議なことを言い出した。

「オレど一緒にご飯食べるわがいやづ、帰って来ねな」(若いやつ)

わが家は美代さんとあたしの二人家族だ、それ以外に誰かが居たら、それは泥棒さんになるではないか(苦笑)

「誰?その人の名前分る?言える?」

「わがらね・・・」

あたしはてっきり父の事を言っているのだと思っていたが、若いやつとなると父ではない。ならば弟のトスさんのことかと訊けば、そうではないと言う。
美代さんにはもう一人弟がいるので、その名前も出してみたがやはり違うと。美代さんの頭の中には、誰が住んでいるのだろう・・・。

ちょっと待って・・・。
美代さんはもう、自分の年齢を言えない。判らなくなっている。
となると、もしかしたらず~っと若い頃の、新婚当時のことが頭によぎったのか。それが父のことだという確信も持てずに【わがいやづ】になったのか。

60年以上も前の時代と、現在を行ったり来たりしている美代さんの頭の中では、あたしの脳では理解できないことが起きているようだ。


健康診断書を特養に届けてきた。
庭に咲いていた花と、施設の外観の写真を撮った。

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美代さんが入居する予定の部屋からは、望んでいた田んぼは観えない。
田んぼが見える部屋が空き次第、引越しをしてもらえることになっているが、その部屋が空くということは・・・そう、その部屋の住人がお亡くなりになるということ。

今朝も、靴は何処にあるのだ?と、訊いてきた。
玄関にあるよと教えると、玄関が判らないと言う。

「玄関はトイレの隣」

「トイレ、どごよ?」

真面目に、漫才の様な会話が続くが、話ているあたしには頭痛が忍び寄ってくる(はぁ・・・)


特養入所のための、健康診断書が出来上がった

2021.3.30(火)

昨日、特養に提出する健康診断書が出来上がり届いた。
出来上がりに2~3週間を要すると言われていたが、正しくその通りの日数だった。

疾病名
  • アルツハイマー型認知症
  • 脳梗塞
  • 骨粗鬆症
  • 高脂血症
  • 不眠症
既往歴
  • 膵炎
  • 過活動膀胱

疾病名がこんにあったんだ・・・飲んでいる薬が物語っているか。

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    身長は、靴のかかと部分が含まれている

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既往歴の膵炎は、平成16年のときに入院加療を受け、その後古河に来るまで薬を飲み続けていた。
そのときの担当医には、油っぽいものや辛いものは、なるべく食べないようにと注意されていたようで、その言葉を守っていた美代さんが常に食べていたのは【白米・味噌汁・漬物】の3点セット。

その言葉を守っての3点セットだとは思えない。
なぜなら元々料理嫌いで、漬物大好き人生。
漬物も自分で漬けていたから、好きな時にいつでも食べられていた。
結局、その習慣が響いて脳梗塞に繋がったのではないかとの診断だった。
(2017.10月に発症)

長年飲み続けていた膵炎の薬も、古河に引っ越すずっと前から、飲んだり飲まなかったりの状態で、薬の管理もできなくなっていたようだ(次女サキの話)

過活動膀胱は、父が亡くなった後に盛岡市内の泌尿器科に連れて行ったが、当時76歳の美代さんは盛岡市内まで通うことを拒否。
仕方なく尿とりパッドを使用していたが、勿体ない精神が災いし、漏れ汚れたパンツをその都度洗っていたようだった(これもサキからの情報)

古河に越してきて、膵炎は完治していることが確認されたが、オシッコについては過活動膀胱・切迫性尿失禁の診断を受け、暫くはベタニスを飲んでいた。
が、薬の効果を感じることができず、あたしの判断で止めてしまった。

現在のオシッコは駄々洩れ状態で、朝外したパッドの吸水量は、身体中の水分が出ているのではないかと想うほどの重さだ。
尿とりパッドとリハパンには、感謝してもしきれない(苦笑)

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感染症は全てマイナス。
皮膚湿疹や医療措置も無し。
インフルエンザ予防接種は昨年10月。
肺炎球菌ワクチンは85歳の時に済ませてある。

血液検査結果についてはローマ字記載で、あたしには何がなんだか理解できないが、問題があったら医師から何らかの報告があるだろうから、たぶん大丈夫なのだろう。

この診断書を元にし、すぐの入居が可能になるかの判定になるらしい。
通り次第、施設側からの説明が行われることになるが、早ければ来月中旬で遅くとも月末前の入居になるとのことだ。

母を特養に入所させることに罪悪感を持っているあたしだが、特養の副施設長は仰る。

「ご本人様もですが、入所はご家族様の負担を軽減するためでもありますので、罪悪感など持つことはないですよ。同じ様に感じる方が多いですが、暫くすると落ち着かれるようです」


飲んでいる薬は、コロナ禍でもあり外出は難しいだろうから、特養提携病院に移譲されることになると思う。


ここは岩手県〇〇市? と、生前遺影はバッチリ

2021.3.29(月)

母美代さんの認知症は、日ごとに進んでいるような気がする。

「トイレは外に在るのか?靴を履いて出て行くのか?」

「トイレは玄関の隣だよ。今時外にトイレが在る家なんて無いと思うよ」

トスえはそどだっけ。そどさあるっけ。トスはまやで寝でるのが?」

(トスさんの家のトイレは外、厩)

トスさんは母美代さんの弟で、生家のナガゼギの家を継いでいる。
最近は父が何処で何をしているのかと言わなくなった代わりに、トスさんを心配することが多くなっている。

トイレに行くと言い出し戸を開けたが、ここからトイレに行けるのか?と訊いてきた。
毎日同じ事をしているのに、毎日忘れる。
ついさっき、トイレの場所を教えたのに、一瞬で飛んでしまう。


ここは茨城県古河市だが、美代さんは岩手に住んでいると思い込んでいる。
トスさんの家も、路地を曲がってすぐのところにあると言ってくる。

金曜日の、美容室の帰りに訊かれた。

「今はどの辺りを走っているのだ?ここらに、まつ〇りがあるはずだ」
(しまむらの様な、地元の呉服店)

「まつ〇りはここら辺ではないよ。もう少し道が狭い所にあるんだよ。暫く外を歩いていないから、忘れちゃったかもね」

「そうがもしれね・・・」

古河市なのだから、まつ〇りはないよと、言ってしまいそうになった。
迷女優は、その都度迷いながらの名演技をしなければならない(苦笑)

すぐに忘れるのだから、古河市であることを言っていいのかもしれないが、そうなるとなぜ古河市に住んでいるのかと、そこからの説明になってしまう。
全てを忘れるわけではないから、そこが面倒くさい所だ。

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生前遺影の写真を撮って来た。
てっきり、嫌々をするのかと思っていたが、二つ返事で「いいよ」と。
写真が無いことは解っていたようで、先日の帰省から持ち帰ったブラウスを着せた。
肩パットが入っている昔流行ったブラウスだが、ユカの一言で決めた。

「なるべく、白っぽい物を着せた方がいいよ。ライティング効果があるからね」

岩手を出る際に持って来た写真の中の1枚に、家族で沿岸に遊びに行ったときに写したものがる。
30年近く前の写真だが、その時に来ていたブラウスで、その写真を見せ同じ服だと教えたが、美代さんはきれいに忘れていた。
まぁ、致し方なし。

当時は50代後半で、髪の毛も黒く染め体型も今よりも細く、ブラウスのウエスト部分には余裕が観られていた。
年月は残酷だと思う。

口紅を差す習慣がないあたしなので、100均で購入したものを用意。
紅筆で綺麗に差してあげ、チークを薄く延ばしてあげた。

写真スタジオの入口は昇り降りの階段が2段ずつあり、結構しんどかった。
なかなか上がれずにいると、有難いことに、店主が足を持ち上げてくださった。
美代さんを外に連れ出し、歩きまわることはもはや困難なことで、そのことは本人も自覚している。


口を閉じている写真と、少しだけ歯が見えている写真の二通り6枚の中から、1枚ずつ削除して最後に残ったものが遺影写真となる作業。
それにはあたしの判断が必要とのことで、パソコンの前で1枚ずつを確認。
が、どうしても判断できない最後の1枚については、プロの目に委ねた。

「目の輝きと口元で笑顔は決まります。それが自然に観える方はこちらですね」

「そうですね、こちらの方が自然ですね」

心の中で選んだ方と同じだった(良かった)
出来上がりは4~5日後で、連絡をくださるとのこと。
車中で、

「美代さん、とっても綺麗に撮れてたよ。もう、いつ死んでもいいね」

「そが。でもよ、準備しておぐど、ながなが死なねものだ」

ハイハイ、あなたは100歳まで生きるのよね(苦笑)


あれほど写真を撮られることを嫌っていた美代さんだが、斜視であることも気にせずに撮ることができたのは、「ハイ、いいですよ~。そのままでね~」と、店主のすり鉢の効果かも(笑)

出来上がりが楽しみだ。


毎年訪れる命日 その日にあなたは何を想う・・・?

2021.3.28(日)

毎年訪れる命日。

12年前の今日、夫は天に召された。
享年、53歳。

54歳になる年の3月に亡くなったことで、墓標には55歳没と記されている。
仏教の世界では、数え年で記されるらしい。

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余命宣告をされていたので、死ぬときには故郷の岩手でという気持ちが強く、民間の救急車を手配していたが、運び込まれたのは救急車ではなく霊柩車だった。

夫と一緒に岩手へ行くために、入居したアパートの解約や引越しの手配などが、バタバタと過ぎて行った。
岩手へ出発するために朝から忙しかったが、部屋のことはむすめ達に任せ病室に詰めていた。
準備が全て終わり、明朝には岩手に向かうことを夫に知らせ、今夜はゆっくり休もう。そんな気持ちでいた。

夜、急変した。
担当医からは、いつ亡くなってもおかしくない状態だとは言われていた。
それでも、何とか頑張って死ぬのは岩手で・・・だったが、その想いは絶たれた。

夫は、もしかしたら岩手に行けるということで安心したのだろうか。
それまで頑張って生きてきたが、張り詰めていた糸のようなものが「プツン」と切れてしまったのだろうか。

看護師からの数分の心臓マッサージのあと、担当医はいなく当直医がやってきた。
「これ以上は何もできない」と言われ、最期は「ウッ」という声が漏れ、臨終となった。
様々な管に巻かれるわけでもなく、左手の指にパルスオキシメーターが一つ。
意識が朦朧とする中で、死に対する恐怖心の様なものはなかったと想う。

病気になるなる前から「やりたいことはすべてやった。いつ死んでも後悔はない」こんなことを普通に言っていた人だった。
後悔はないが、未練はあると言っていた。
それは、孫の顔が観られないこと。
こればっかりは、あたしでも手助けはできないこと、むすめ達次第だから。

死期を悟り、死の恐怖はなくても「死ぬときに苦しむのは嫌だ」そんなことも言っていたが、眠るようには逝かなかった。
最後に漏れた「ウッ」は、苦しみの声に聞こえた。

入院期間、約1ヶ月。
死亡時刻、夜11時13分。
死因、胆管細胞がん。

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     落ちていた小枝に残っていた桜です


茨城県民となり、20年の歳月が過ぎた。
この20年のうち、野田市に約2ヶ月間。
岩手の実家に、約6ヶ月間住所を置いていた。

関東に出て、夫と暮らしていた期間は8年。
以後の12年は夫のいない世界で、この中には母美代さんとの同居も含まれる。

死は平等だ。
死なない人間はいないだろう。
あたしも、いつかは夫のいる世界に行くことになる。
でも、あたしは小心者なのだろう。
後悔することが沢山あるし、未練も多い。

いつかはお迎えが来るのだろうが、それはまだまだ先であってほしい。
そして、お迎えが来るまでは、なるべくなら自分の事は自分でできている人生で在りたい。
欲を言えば、夫が言っていた通り苦しまずに逝きたいものだ。


ねぇ、あたしはまだそっちへは行きたくないよ。
だから、そっちの世界で良い人ができているのなら、その女性(ひと)と楽しくしててね。
でも、お願いがあるの。そっちに行った時のあたしの姿は、あなたが知っているあたしではないはずよ。それでも、ちゃんと見つけてほしいの。
そして、できれば「お疲れ様」の一言がほしいな。


この12年間、一日たりとも忘れたことはない。
人は二度死ぬと言う。
一度目はこの世から去ったとき。
そして、二度目は人々の記憶からなくなったとき。

母は、父の死を受け入れていない。
父は、母が亡くなるまで生きているのだろう。

あたしも、自分の生が尽きるその日まで、夫のことは憶えていたいと思う。

今生は一度限り。



デイサービスに出勤する?そして生前遺影

2021.3.27(土)

今日から、いつものデイサービスへ出勤の美代さん。
出勤したら、一般的にはお給料が発生するけれど、美代さんの場合はお金を支払っての、お仕事。お給料をもらっているという意識はないが、仕事に行くという感覚があるようだ。

美代さんは55歳の時に定年退職をしている。
電子機器メーカーの工場で、ベルトコンベヤーでの流れ作業。
レーンの中で、母の作業はとても細かい仕事だったらしく、もたもたしていると自分の所に製品が溜まり、皆に迷惑が掛かると、必死で仕上げていたらしい。

当時の母は、何故だか社長からの信任が厚く、「美代さんに任せておけば大丈夫」みたいな感じで仕事を任せられていたと。そのため、休憩時間もそこそこにして、仕事に就いていたと言っていた。


「美代さん、デイサービスはただではないのよ。迎えもご飯もお風呂も、ぜ~んぶお金を払ってるのよ。今時、ただでご飯を食べさせてくれるところなんて、ないんだよ」

「そだのが?!・・・そだよな~・・・ただなはず、ねぇよな・・・」

この内容は、これまでにも何度も繰り返されているが、毎回忘れる美代さんは、毎回お金を支払っていることに驚いている(苦笑)

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       ウォーキングコースの桜です

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    落ちていた花びらを拾い、カップに浮かべました

1週間ぶりの出勤になる今日。
昨日は美容室でフルコースを受け、いつもより短めのカットにパーマをかけてもらい、髪の色はトレードマークのブルー。

髪を切ったことを、スタッフの誰か一人でもいいので、気付いてもらえたらいいな。
女って、何歳になっても綺麗で居たいのですよ。
髪型や髪の色が変わったことに、気付いてほしいのですよ。

特養に入居になったら、簡単には外に出られなくなる。
髪の毛も、特養でのカットになる。パーマは当然だが、ヘアーマニキュアも暫くは無理だろう。

生前遺影の予約を入れた。
明日の午後2時から。

100歳まで生きると太鼓判を押されている美代さん。
87歳の写真を、100歳で使っても良いものなのかと、先に問うてみた。

「80歳くらいで、若い頃の・・・40~50代の写真では少し難があるかもしれませんが、今撮った写真を100歳で使うことは、特に問題はないと思いますよ」

死は突然にやって来る。
誰も自分の寿命などは知らないだろう。
いざという時に写真が無いと言う人は多いらしい。
そのための生前遺影。

写真嫌いの美代さんを、ゴマすりながらも何とかなだめて連れ出さなきゃ。
がんばりましょ。


プロフィール
こんにちは、にゃんズの母と申します。 2001年、念願の実家脱出に成功。 2009年、最愛?の夫と死別。 以後、気ままな一人暮らし。 2017年、軽度認知症の母との生活が始まり、 介護と思しきバトルの日々でございます。 動物大好き、特に猫。 酒とお洒落を愛する、普通?の「おんな」でございます。
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