母と今後について話し合ってみた。

認知症の初期。
耳が遠いという訳ではないが、一度で理解できない。

春頃からあたしは口調を替えた。
なるべくゆっくり大きな声で話すようになった。
病院に行くと、周りに振り向かれることもあるが、仕方がない。
「分かった?」と訊くと「分がった」の返事が返ってくる。

会話を続けると、母お得意の頓珍漢な受け答え。認知症に因るものなのか、理解力が乏しいせいなのかイマイチ判らない。

毎日ぼ~っとしていること、居眠りしていること、何も苦にならないと言う。
この暑さで日に何度もベランダの野菜たちへ水かけ詣で。
それが、一番の楽しみらしい。

あまりにも自由過ぎるので、症状が進み、あたしの手に負えなくなったときは介護施設に入所してもらうことを伝えた。
「いいべぇ、おめのいいようにしてくれ」

本当にそれでいいのか確認してみた。
「今だっておめに面倒かげでる。そうしてくれ」

これは状況を理解していると判断することとする。

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お盆に帰省後、暫く実家で過ごしたいと言っている。
血圧、薬、食事、お風呂。日中は一人での生活。大丈夫なのか。

やってみると言っているが、それができなくてあたしとの暮らしになった訳で・・・。

近所に住む同世代の年寄りもひとりふたりと亡くなり、話し相手も居なくなってきているが、それでも長年住み続けた実家の方が、母にとっては居心地が良いのだろうことは百も承知。はてさて如何したものか。


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父が亡くなってからの9年(あたしも夫を亡くして9年だけど)母は何を思って生きてきたのだろうか。
たぶん・・・あたしとは違う寂しさを抱えてきたのだろうし、父という話し相手がいなくなったことで、認知症も加速されたのは間違いないだろうと思う。

岩手にいる頃には、週2回のデイサービスを受けており、その日の朝は早起きをし時間前から迎えの車をいそいそと待っていたが、ここで暮らすよようになってからは、デイに行きたいという言葉が全く出なくなった。

母は、岩手の農村部の出身。
幼い頃から、一家の働き手を担ってきた。
小学校も卒業していない。

母の人生に於いて目新しい言葉は必要なく、田舎言葉で十分に通じていた。
だが、ここで暮らすようになり言葉の壁にぶち当たっている。
『方言、お国訛り、イントネーション』の違いにより、あたしには通じても、他人様にはなかなか通じない。
それがネックとなり、デイに行くことを渋っている。

ここも関東の田舎だ。田んぼも畑もある。
認定調査の際、認定員の方がおっしゃっていた。
「震災で移り住んでいる人たちもいます。その中には岩手や福島の方々もいるから、気にせずとも大丈夫ですよ」

あたしもそう思うのだが、こればかりは母の気持ち次第だからあまり強くも言えない。
いづれ、サービスを受けることにはなるだろうが、それはまだもう少し先。

これからも本能で生きていくのだろう・・・

          それが母の幸せなのだから。



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